初めましてこんにちは。
この度は私のサイトにお越しいただき、どうもありがとうございます。
私は中2長女、小3次女、3歳長男の3人の子どもを育てながら、一見人当たりが良く浪費家な夫と共働きで家計を支える40代のワーママです。
現在は時短正社員ではありますが、福祉職ということで、これまで専業主婦や扶養内のパート、扶養を外れたパートなど自分の気持ちを後回しにしてなんとか家庭が成り立つよう働き方を柔軟に変えて試行錯誤してきました。
夫とはお金のことや夫の不倫など色々な出来事から、何度も離婚を考えてきましたが、長女の不登校をきっかけに、子育てが落ち着くまでは離婚はせずに、家族の再構築を試みることにしました。
まだ自分にできることはあるし、離婚だけが解決策ではない。環境を変えても自分が変わらなければ同じことを繰り返すだけだと思っています。
一方で、今の私は金銭的理由と子どもへの影響から現状維持を選ばざるを得ないとも感じています。本当は認めたくない感情でしたが、自分の本心と向き合わないことには、どんな試行錯誤をしようとも、前に進めないと強く感じています。
そこで私は、Webマーケティングを学び、夫の経済力に頼らずに生きていける自分になることを目標に動き出す決意をしました。
未来の私が、対等な関係として夫婦・家族関係を続けていく決断をするのか、経済的な理由が解決したら、意外とスムーズに離婚を決断するのか、自分の身を持って試してみようと思いました。
目標は、1年後に月収20万円、2年後に月収50万円を達成することです。
いきなり飛躍しすぎと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、私は本気です。
月収20万円は現在の私の月収額、月収50万円はいざ夫の稼ぎがなくてもゆとりを持ちつつ生活できる金額、夫と協力すれば今よりも豊かに趣味や旅行を楽しみつつ、夫に使われていた老後資金と教育費を取り戻していくことができる金額です。
目標月収を確保できた時の私が、仕事や夫とどのような向き合い方をし、どんな決断をしていくのか?私の実体験を通して、みなさんがご自身にとっての理想の働き方や家族との時間を考え、自己決定をする一助となれば嬉しいです。
ではなぜ私が、これまでの状況に実家を頼り離婚しなかったのか?なぜWebマーケティングなのか?という経緯について、自己紹介を含めてお話ししていきたいと思います。
基本情報
名前:こゆん
性別:女
年齢:40代
職業:福祉職の時短正社員
(子どもの状況に合わせて、パートや正社員を試行錯誤する専業主婦や産・育休も取得経験あり)
好きな食べ物:たこ焼き、餃子
好きなお酒:ビール・紹興酒
好きな漫画:氷の城壁・キングダム・君に届け
趣味:アウトドア・ドライブ・料理
ストレス発散方法:寝る・漫画に逃亡・温泉でリフレッシュ
幼少期〜小学生 親の価値観との葛藤と家庭に居場所を感じられなくなった決定的な出来事
自営業の両親の元、2つ上の兄、6つ下の妹、父方の祖母との6人家族で育ちました。真ん中っこ特有の周囲の顔色を見て気を遣うことが当たり前の我慢強い子だったと思います。
自営業だった我が家は土日も父親不在で過ごすため、主に母親と祖母との記憶がほとんどでした。母も仕事の手伝いで忙しく、祖母と過ごす時間が多かったように思います。
私が小学1年生の頃に妹が生まれて以降は、両親と一緒に寝ることがなくなりますます祖母とばかり一緒にいたのを覚えています。今思えばこの頃は毎日のようにオネショをしており、本当はとっても寂しかったんだろうなと思います。寂しい気持ちを外に出すのはワガママでいけない事だと思っていた当時の私は、お姉ちゃんだからしっかりしないとと自分の気持ちに蓋をして気丈に振る舞っていました。
両親からは「世間から見られて恥ずかしくない」「男だから、女だから」という言葉で説明されることが多く、幼かった私は大人の言ってる本来の意味がわからず、「自分はダメな子なんだ」「私がいると迷惑なんだ」と思い込んでいました。
おうちの手伝いをしようと台所の母に声をかけると、「危ないから台所には入っちゃダメ」と言われ続けて何も教わっていないのに、とある日には「女の子なのにこれくらいもできないの?」と言われる。当時の私はただただ自分がいけないのだと思っていました。何をしても私はいわゆる女の子像と比べられ、2つ上の兄とも比べられ、兄は褒め称えられる。今思えば、2つ上の兄と比べったてできないに決まってるじゃん!!と思うのですが、当時の私はそこまで考えることもできませんでした。
兄に負けないように部活やテストをひたすら頑張って、小学生時代はオール5の成績を持ち帰ることで認めてもらおうと必死でした。
しかし、成績表が私の方が良くても、兄の方が「男なのに器用で家庭科もできてすごい」など、何かと兄と比べられ否定される結果に、がっかりしました。
それでも、子どもは親が大好きで認められたいと思うもの。私は親が望むように学校に通い自分の思いつくできる限りのことをして過ごしていました。
小学校4年生の時に、習い事先で友人の教科書がなくなったと騒ぎになっており、一緒に探していたところ、急に私の手提げカバンが怪しいと言われました。身に覚えのない私は堂々と手提げカバンから荷物を出したところ、友人の教科書が入っていました。
「ハメられた」と思いました。私ではない主張をしましたがその場の雰囲気的に聞き入れてもらえず、謝罪をさせられて終わりました。悔しいので「私は何もしていないけど、なくなった教科書が私の手元にあったのに気が付かずにごめんね」と精一杯の強がりを伝えたと思います。
普段相談などをしない私が、家族にだけでもわかってもらえればいいとの一心で母親に相談をしました。
結果母からの言葉は、「友人の悪口を言ってはいけない」というものでした。予想外の対応にとてもびっくりして言葉が出ない状況でした。
その時から、私の心は凍りついたように感情を無くしてただ淡々と生活を送る毎日に変わりました。
中学生時代:人を信じることを諦めた出来事
中学生時代にも、部活の先輩からのくだらない呼び出し、クラスの友人たちのグループから何もしていないのに言いがかりをつけられて、ハブられる。
ハブられ続けたくない子は謝罪や媚びを売り、グループに戻りまた別の子を仲間外れにする。理解できなさすぎた私はハブられても屈せず、グループを無視して気の合う人とだけ気にせずに話すことにして過ごしました。もう何があっても親に相談することはありませんでした。
中学2年生の時です。小学生時代に私をいじめていた幼馴染のお母さんが突然亡くなりました。
本当は自殺でしたが、表向きはその子のために病気で運ばれたことにするから本当のことは言っちゃいけないと親から説明を受けました。じゃあ、なぜ私にも病気で死んだって言ってくれないんだろう?
私は最後に友達のお母さんと顔を合わせた時に「あの子をよろしくね」と言われており、そもそも私を対等な友達と思っていない子をどうよろしくするんだろう?と
勝手なことばかり並べる自分の親にも、自殺した友人の親にも嫌気がさした。
親や大人を信じること・頼ることを諦めた瞬間でした。
高校生時代:さまざまな出会いから将来の目標が生まれる
中身が空っぽな私は、流れに身を任せつつも、高校生活に期待を抱き、自分の中学からの生徒が数人しかいない学校へ進学。今思うとあんなにズタボロの状態でもなお、生きることをあきらめずによく頑張っていたなぁと思います。
学校生活への淡い期待は外れ、近所にあるファミレスの接客アルバイトに没頭しました。
アルバイト先の人間関係に恵まれ、幅広い年齢の方々と楽しく関われる時間に、喜びを感じ、働くことが好きになりました。そして自分って人と関わることが本当は好きなんだと知りました。
プロ意識を持ち仕事に取り組む姿勢にかっこ良いなぁと憧れました。
同じファミレスのメニューでも、キッチンスタッフのちょっとした努力や心がけでおいしさが全然変わるんです!!
また、優しく人間力のある大学生の先輩方とのやりとりでは、同じチームの仲間として、人と人が支え合うこと、交流する楽しさを体感し、ワクワク&キラキラした日々に夢中で働きました✨
しかし、母親からは大学生との交流に対して一方的に注意を受ける。わたしにとって大切な人たちを、会ってもいないのに勝手なイメージでジャッジして批判する、私の考えや言葉は全く聞き入れてもらえませんでした。昔から、私個人の考えや意見は発言することすら許されない。発したところで、取り扱ってもらうこともない。悲しい現実を突きつけられました。
ある日、こらえていた気持ちが限界に達したのか、吐き気や腹痛などの原因不明の体調不良に襲われて自宅療養を余儀なくされます。
色々な病院を転々とするも原因不明。おそらく気持ちが影響している体調なのに、親が連れて行くのは内科ばかり。
私は自分の気持ちの限界や学校での出来事など、一切親に話すことはなかったので、親は気が付かなかったのか、気がついていたけど娘が心の病気で不登校になる現実を受け入れたくなかったのか。
この頃病院で出会った内科の看護師さんにふと、親に思っていることを何も言えなくて辛い、言ってもわかってもらえ無くて悲しいと話をしました。
病院では内科の治療に関わる検査を流れ作業で行うことが多く、検査の合間でのやり取りでふとこぼれ落ちた言葉でした。
検査結果はやはり異常はなく、帰路に向かう途中、私の話を聞いた看護師さんが追いかけてきて、私に声をかけてきてくれました。
「きちんと本音を話したら、わかってもらえるはずだから、頑張って」というような言葉だったと思います。突然声をかけられて驚いたこともあり、内容ははっきり覚えていませんが、その方が真剣に私の言葉を受け止めて、応援してくれていることだけは十分過ぎるほど伝わってきました。
また、その言葉がけは看護師としての業務上のものではなく、その方の「人としての声かけ」だということは世間知らずの高校生にもしっかりと伝わってきました。
内心、うちの母親は伝えてもわかってくれないことは予測できて諦めていましたし、実際に母親との関係がこのことを機に大きく進展することもありませんでしたが、この出来事に私の心は大きく揺さぶられました。
名前も知らない一度受診時に会っただけの看護師さん、二度と会うことはないだろう方からの一言にこんなにも励まされ勇気をもらうことがあるなんて、驚きました。
この経験を機に、私は「悩んでいる人に寄り添える仕事に携わりたい」という将来への希望が芽生えました。
しばらくして体調は落ち着き、親から腫れ物扱いされる日々にも嫌気がさし自宅に居場所がないことで、行きづらいと感じていた高校へも案外スムーズに復帰し、福祉系の大学を目指すことにしました。
この体調不良の期間を経て、私は人との心の距離の保ち方が少し上手になり、自分が見える世界を少しだけ俯瞰して捉えるようになりました。
色々な人がいて、合う人もいれば、苦手な人もいて当たり前。上部だけの関係の相手の言動に心をすり減らすのはもうやめよう。
気にしないように強がって生きていたけど、本当はとても傷ついていた。社会は自分が思っているより広く、これから色々な可能性があるのかもしれない。
そんな淡いきもちを胸に抱き、これからやっと人生が動き出すのを感じていたように思います。
大学生時代:親友と理想の家族像との出会い
大学は「女は大学に行かなくてもいい」という親や親戚からの反対を押し切り、「福祉の資格をとっておけば、結婚後も仕事に困らないから」と適当な理由をこじつけて、オープンキャンパスで学生の雰囲気が一番気に入った大学に半ば強引に入学させてもらいました。
この時初めて自分の主張やワガママを通し、きき入れて貰えた経験は、自分にとってものすごい自信になりました。また、余計な干渉をせずに自由にやらせてもらえる事についても親に対して感謝の気持ちが少しずつ湧いてきていました。
大学生活では私にとって大切で大好きな親友と出会い、親友の家族と食事などを共にすることで、少しずつこんな家庭を持てたら素敵✨という憧れを持つようになりました。
親友の家族は大人になっても家族で一緒に旅行に行ったり、家族と悩みを共有していたり、私のような友人を招いて食事やお泊まり会をして昔のことを語りあったり、まるで自分も家族の一員になったかのような楽しい時間を共に過ごしました。乾いていた私の心にとても温かい気持ちが染み渡っていきました。
親友と出会う前の私は自分が育った家庭に居場所を感じていなかったこともあり、自分が家庭を持つイメージを一切持てないでいました。血の繋がりがあり心が通わない家族よりも、お互いを思い合える存在の方が尊いと思っていました。当時の私は「きっと私はみんなが結婚して家庭を築いている頃に、独身女としてフラフラしているんでろうな〜。でも子育てくらいは経験しておきたいな〜。」とよく飲み会で語っていた記憶があります笑
人を頼るのが苦手な私を心配し、一歩踏み込んで助けてくれることもありました。私の人生は親友と出会ってから少しずつ満たされ充実していきます。親友からもらったたくさんの愛のおかげで私も「大切な人を愛する・大切にする」ということを学びました。「大切な人に寄り添い大切にする」ことは今でも私の原動力となる大事な価値観です。
お伝えするのをすっかり忘れていましたが「悩んでいる人に寄り添える仕事に携わりたい」という気持ちは変わらず持ち続け、学生の本分である学業では困難な実習と試験をクリアし、無事に精神保健福祉士という国家資格を取得することができました。
社会人〜結婚:夫との出会い・結婚の目的
家族に大学の学費を払ってもらった感謝こそあれ、私はやはり自分の家族と一緒に住み続けることは苦痛に感じていたので、自宅から通えない距離の就職活動に励み、見事一人暮らしでの社会人生活を勝ち取ることに成功しました✨当時の私、よく頑張った👍
そして私への干渉を諦めてくれたこと、両親に感謝しています!!
ここでまた、ちょっと自信をつけた私は、大好きな海と山に囲まれた地でサーフィンやドライブ、カフェ巡りなど、現地の友人たちと趣味を満喫する日々。
しかし、この頃私の大好きなおばーちゃんが体調を崩すようになりました。
「せっかく自分の人生を歩み出してきたのだから、両親のいる家に帰りたくない。これは仕方のないことだ。」と言い聞かせてみました。深夜車で2時間かけて月に1回は自宅に帰ってみたりできる限りのことをしてみましたが、どうやら私はおばーちゃんが生きているうちにもっとおばーちゃん孝行をしておきたいようだ。
遊びに散財していた矢先の出来事に引っ越し資金が追いつかなかったので、退職を決意し自宅へ出戻ることにしました。
おばーちゃん孝行したい気持ちとは裏腹に、実家に帰ると自宅にいられない症候群が出てしまい、仕事やら飲み会を理由にほぼ自宅にいない生活。おばーちゃんとは毎朝顔を合わせるのが精一杯。月1回会えるかどうかと比べたら十分かなと自分に言い聞かせてもいました。実際おばーちゃんは私が帰って少し元気を取り戻した様子もありちょっと安心もありました☆
そんな時に今度は父親が脳梗塞で入院。このまま死んでしまったらどうしよう!?感謝も何も伝えていないし、何も親孝行できていない。
自分の人生を自分のために生きたいのに、あんなに辛い過去があって恨んでいる気持ちもたくさんあるのに、それでも私にとって家族というのは大きい存在のようだと認めざるを得ませんでした。
家族が求める幸せと自分が求める幸せが違うのに、どうしたらみんなが幸せを感じられるのか?親孝行したい気持ちとの葛藤を一人で抱えきれずに悩んでいた頃に、職場が一緒だった現在の夫に話を聞いてもらうことが増えました。
仕事からの帰り、空に2本の虹がかかっているのをみて感動した私は「誰かと共有したい」という気持ちにかられて、真っ先に思い浮かんだのが夫の顔でした。当時まだ連絡先も交換していませんでしたが、そこから少しずつ距離が縮まっていきました。
付き合いを開始し、夫の家庭環境も私と似ている点があることを知り、一緒なら互いの悩みを分かち合い乗り越えていくことができるのではとも感じている矢先に、私の妊娠が発覚しました。元々、子どもを育てたいとは思っていたので、一人でも産む覚悟。とはいえできれば夫がいるに越したことはない。短期間での付き合いでのデキ婚になるので離婚の確率も高い。「この先どんなことが起きようとも、絶対にこの子を産み育てることに対して後悔はしない!!」と覚悟を決めました。
お互いの家庭の状況、おばーちゃんたちが元気なうちにひ孫を見せてあげたいお互いの気持ちも一致し結婚を決意。お互いに自分の親との苦手なやりとりを補完しあって、自分一人では想像もつかないやりとりができるようになっていました。一人では両親と会話することすらできなかった私が、夫のおかげで少しずつ会話や同じ時間を過ごすことができるようになり、愛らしい長女の誕生に両家族のみんなが幸せに包まれていました。
結婚と長女の出産は夫も私もお互いの家族もみんなが求める幸せのように思えました。
停滞期:結婚後の夫婦の変化・全ての歯車が噛み合わない時期
幸せな日々は長くは続きませんでした。結婚後数年が経つ頃にはお互い、抗ってきた各家庭の価値観に侵されていました。心配性でネガティブな事ばかり口に出す母親似の私、亭主関白で私のことを家政婦のように扱う父親似の夫。お互いが魅力を感じていた姿はもはやどこにもなく、世間からの父親像・母親像に囚われていたのだと思います。
いつの間にこんなことになってしまったのか??
幼少期からのトラウマの脱却を図っていた2人が、相手や状況こそ違えど、同じことを繰り返している人生に気がつき嫌気がさしました。
優しかった夫も、義母も私を自分の思うようにコントロールしたいだけの言動に気が付く。
義理の実家と距離をとり、少しずつ自分を取り戻す決断をしました。
お互いに自分たちの本当の幸せについて向き合わずに、周りから求められる幸せを叶えようとしていたツケが回ってきたのだと思います。
夫はストレスから浪費に走り、私は毎月支払いのために仕事をし、節約のために家事育児に追われてすり減るばかり、子どもの前でもケンカも絶えず、長女に対しても自分たちが受けてきた指示的で大人が楽なやりとり、できていないことばかり伝える。
虐待は連鎖するというけれど、こういうことかと身をもって体感した出来事でした。
このころは毎日のように離婚を考えて、シングルマザーの友人に相談ばかりしていました。
離婚への備えとして、パートから正社員へ切り替えて働き始めました。
第二子出産・離婚を踏みとどまり第三子出産
不思議なもので、相手に過度な期待をしなくなることで、夫婦仲が好転し第二子妊娠、産休育休の後に仕事へ復帰。男女関係ってこういうことありますよね笑
この頃、夫が自分の夢のために転職。ずっと家族から反対されて我慢してきた夫の決断は自分自身ともかさなり、全力で応援したいと思いました。完全ワンオペ育児に、夫のお弁当作りまで担うハードワーク。
夫は人間関係を理由に、3ヶ月で退職しました。メンタル的にきつかったそうで私に確認後、即退職し次の転職先を探していました。優しくて人が集まるイメージを持っていた夫でもこういうこともあるんだなと思いました。また、私自身としても、一般論ではなく、自分の考えとしての意見を夫に伝えられたこと、夫が私の意思を確認してくれたことが嬉しい出来事でした。
夫の挑戦は終えたが、一緒にこうなりたいって夢へ向かって行動を起こす姿に勇気とパワーをもらいました。私は、自分が大きく行動するのは失敗が怖くてできないから、応援しようと思っていました。
この後、夫は心を入れ替えて子育てや家族のことを中心に生活してくれるように、、、なりませんでした。そんな単純に人って変わりませんよね。喉元過ぎれば熱さを忘れ、再び亭主関白で家のことは何もしない、子どもが2人に増えたのに全て私に任せきり。むしろ赤ちゃん返りで不安定な長女への当たりがキツくなるばかり。長女に怒鳴る姿を見て、とても嫌気がさしていました。
土日は自宅で寝てるか怒鳴るか、しかもなぜか子どもたちの過ごすリビングを陣取って過ごすので、子供達が遊ぶたびに部屋が汚いとヒステリーを起こす。え、いない方が楽なんですけどー!!!頭の中で「お金を入れてくれるだけまだマシ」と言い聞かせていました。自宅で過ごすと怒鳴られるのが嫌なので、リコ活ついでに私一人で子どもを連れて公園や遊園地などのプチ遠出を楽しむ週末。でも、子どもたちがよその家族団欒な一家を見て寂しそうにするんです涙
こんなに頑張っているのに、やっぱり子どもはパパのことも大好きなのですね、、、。寝てばかりで家事を全部押し付けてきて、平日は仕事と家事育児、土日は家事育児、自分の時間を全て捧げ奴隷のように頑張っているのはママなのに悔しーーーーーーーーーい!!
嫌なことがある度に、常に頭に浮かぶけど、決め手に欠ける離婚の選択肢。いっそのこと浮気でもしてくれれば慰謝料も貰えて、スッキリ別れられるとも思いました。
その後は一旦諦めて、夫が真面目に働いてくれるように夫が望むマイホーム購入を決意。住まいが整えば、変わってくれるかもと淡い期待を抱いていました。
夢のマイホーム購入に気持ちが盛り上がった二人の間に第三子を妊娠。長女出産から10年、これから3人目を産むとなるとこれまでのように気軽に離婚とは言い難くなる、、、それでも3人目を産んで育てたいと心から思いました。
長女の不登校を機に再び共に歩み始める
第三子出産後の育休中に当時小学5年生の長女が突如不登校になりました。原因はまったくもって不明でした。
当時は親子ともに気持ちがとても不安定になり、長女は部屋に引きこもる、トイレに引きこもる、しまいにはストレス性の蕁麻疹が出て休むための正当な理由ができたとここぞとばかりに喜んで見せに出てくる始末。
どうしたらいいかわからないけど、とにかくこのままではいけないことだけは痛感しました。
そんな理由がないと休みたいと正直に話せない関係しか作ってこれなかった自分に悲しくなりました。
娘が必死にSOSを出しているその時、私の頭をよぎったことは、このまま不登校を続けられたら、私は働きに出られなくなり、我が家は家計が回らなくなるのでは!?という焦りと不安でした。母親失格だなと自分で自分が嫌になりました。
以前の私は、「家と食事に困らずある程度の生活ができるようにしてあげていれば子どもを十分に育てることができている」と自信を持って思って毎日必死に働きに出ていました。
今では、子どもの心を守り育むことが親の役目であると感じています。子どもと向き合っていくためにも、子どもとの時間を楽しむお金と時間、気持ちのゆとりのある生活を送りたいと切に願います。
夫も娘の不登校当初は脅すように「今日は休んでもいいから、明日は絶対に行くんだぞ」と何かと交渉して学校に行かせることばかりに躍起になっていました。ここでも私たち夫婦は「自分たちの時は無理やりにでも学校に行った」と自分たちが受けてきた経験を子どもに押し付けようとしていました。自分の子が不登校という肩書きを受け止めたくなかったのかもしれません。
ピンチをチャンスに。
結果的に長女の不登校は私たち一家が生きることを楽しむこと、互いの弱さを補完し合うこと、家族や大切な人を大切にすることを教えてくれました。夫も少しずつ学校に行かない選択をする娘を受け入れ、今では遅い仕事の日に一緒にドラマや映画を観て語らう関係が築けています。
長女の不登校を認めることで次女も学校を休みがちになります。月に数回休んでもOK!として通わせていましたが、年間30日以上の欠席は不登校カウントされるため、当時の先生がとても心配して声をかけてきてくれました。この年、我が家の子供達は正式な不登校と認定されました。
なぜ学校に行くのか??行った方がいい理由もたくさんあるので、この話題を人に伝える時には、「無理やり連れてけばいい」「家が居心地が良すぎるからいけない」「親が甘い」「娘に優しすぎる」など一見誉めてくれているような言葉での皮肉や批判的なご意見もたくさん言われました。
私たちの状況を深く知りもしないで娘が不登校という一面だけを切り取って批判的な発言をする人は気にしなくていい存在であると、過去の経験からすぐに気がつき気持ちを切り替えることができました。この年齢になると、あの時の辛い出来事はここにつながっていたのかという気づきも出てきて、人生って面白いなと思えるようになってきました。
娘が自宅で安心して生活しながらも、心を育み、自立を身につけることを目標に、まずは一番身近な社会である家族のあり方、信頼できる友人家族との付き合いを大切にし意識的に交流するように取り組んだところ、自分自身の心も満たされることに気がつきました。
ママが笑顔でいられることが、子どもたちの笑顔を守るとも実感し、まずは自分や自分の気持ちを大切にすること、家族一人ひとりを大切にすることを私自身も学び直しました。
夫の不倫発覚と失職・夫のメンタル不調での自分の無力感
はい、過去に切に望んだ大きいきっかけが急に降りかかりました。少し前の私ならガッツポーズで即離婚を決行していただろうなと考えつつ、残念ながらこの時の私は離婚に踏み切ることができませんでした。こんなタイミングで不倫やってくれちゃいましたかー。しかも、仕事がらみの複雑な状況もあり夫は責任をとる形で職を失う。TVに出るようなどこぞの大きな会社の社長なら辞任したってお金いっぱいあるから困らないのではって思ってニュースを見ていましたが、我が家の状況は違いました。
1年前に会社を立ち上げるために、夫と私がコツコツ貯めてきた老後資金を投入しました。キープしていたはずの生活予備ひと子どもの教育費は勝手に使い込まれカツカツ状態が発覚。離婚しても慰謝料どころじゃない涙。
おそらく、夫が事実をきちんと捉え、反省の気持ちを持ち、スピード感を意識して誠実に対処できていたら、彼の元に集まってきた方々はきっと協力し、一緒に再生へ取り組んでいけるような素敵なチームだったと思います。残念なことに夫は「悪いことをした」自覚はありつつも「仕方なかった」と開き直り、会社としての誠実な対応をとるつもりが無いようでした。
15年近く連れ添った夫でしたが、意見の食い違いや価値観のズレに悩んできましたが、どこか共通の価値観があるという感覚を持ってきましたが、全くの別人と話しているようでした。最初は反省もしていたようだったのに、途中からの開き直ったような態度はめちゃくちゃ苛立つ!!!
全く理解はできないけど、もしかしたら本人も受け入れ難い状況なのかもしれないと思いました。夫は管理職を辞任するつもりはあっても、会社自体を手放すつもりはなかったようでしたが、家族を続けるための条件として、夫が会社を辞めて譲ることで責任をとることを私から提案しました。会社に集まってきた仲間とお客さんの生活を第一に考えた決断でした。
本当は夫も会社もどっちも投げ出して逃げたい気持ちもありました。
一緒に貯金を投資する時にはすでに裏切られていたなんて、絶対に許せない!!!子育てがひと段落したら絶対に離婚する!!と言い聞かせてその場を凌ぐ日々もありました。
自分の望む未来を自分自身で切り開く決意!
大事な決断は自分が整っている時にする。私はとりあえず、大きな状況の変化が起きない限り、1年間様子を見る期間を設けました。私自身も気持ち的にショックを受けている状況なので、多少のメンタルの波は想定内。そこに振り回されて、その都度悩むのは勿体無いので1年間は情報を集める期間と割り切って、心を消費するのを辞めると決めました。
自分の結論を出す期間と定めたのが2025年3月末でした。
何度もお伝えしたとおり、私は夫の経済力に頼らず生活できる自信をつけた上で、夫との関係や自分の人生と向き合うという結論を出しました。
都合の良い先延ばしに聞こえますよね。私もとても悩みました。もうこんな状況なら離婚した方がいいのではって、自分にも何度も語りかけました。
大切な人を大切にすることを子どもに胸を張って体現するというミッションを胸にした私はとても葛藤しました。でも、子どもにとっては貴重な子ども時代の毎日を無駄にしたくない!!
お金の不安を手放し、心豊かに生活を送りたい。自分の心から望む人生を見つけていきたい。夫の不調時に「少しゆっくり休んでみたら」と言える自分もカッコいいかも☆子どもの不調時に安心して一緒にいてあげられる自分でありたい。自分が望む未来を夫の収入に頼らなくても自分で切り開く力が欲しい。
最後に
冒頭にも話したように、目標は1年後に月収20万円、2年後に月収50万円です。
具体的なプロセスはこちらの記事にまとめました。
私はこれから計画を実行していき、目標実現のために取り組み続けます。
そして、私のように夫との関係に悩み、お金の不安が理由で自分で人生を選ぶことができずに悩んでいる方々に、自信と勇気を届けられたら嬉しいです。
いずれはみなさんがビジネスを始めるためのサポートをしていきたいです。
とはいえ、私はまだビジネスを始めたばかりの未熟者です。
ぜひ私の体験を実験台のように捉え、夫の経済力に頼りまくっている共働きママが、本気でWebマーケティングを学んだら、目標である1年後に月収20万円、2年後に月収50万円を達成することは可能であるのか?そして、夫の経済力に頼らない私になった時に、どんな未来を選択していくのか、このWebサイトで確かめてみてください。
みなさんが私のやり方を参考にしてビジネスを始めようとした時、その道しるべとなるために、成長記録を残し、発信していきます。
よかったら定期的に私の成長過程を見に来てください。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました(^ ^)